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第九章 パーティー

Author: 雫石しま
last update Last Updated: 2025-07-24 04:00:30

萌香は立ち上がることを止め、その男性へと向き直った。男性は目尻を下げ、目を細めた。それはどこか懐かしい人を見るようで優しかった。管弦楽団の四重奏が遠ざかり、周りの音が消えた。萌香も彼に、どこかで会ったような既視感を覚えた。まるで記憶の断片が静かに心の底から浮かび上がって来るような気がした。

「お隣、よろしいですか?」

「はい、どうぞ」

萌香が頷くと彼は紳士的な振る舞いで、椅子にゆっくりと腰掛けなおした。その二人の姿を見ていた翔平の目は嫉妬に激しく揺らめいた。彼は踵を返して萌香へと向かおうとしたが、女優に腕を掴まれ身動きが取れなかった。彼女の力強い手に阻まれ、翔平の心はさらに乱れた。

「なんだ、離してくれ」

「駄目よ、今日は私と一緒にいる約束でしょ?守らなかった、どうなると思う?」

女優は翔平とのベッドシーン動画を世間に広めると、低く呟いた。

彼は動きを止め、凍りついたようにその場に立ちすくんだ。一方、萌香と見知らぬ男は穏やかに話し続け、親しげな雰囲気が漂っていた。翔平の胸に焦りが広がり、心臓が激しく鼓動した。彼は女優の言葉の重さに耐えきれず、萌香の笑顔を見ながら、嫉妬と不安に苛まれた。どうすればこの状況を打破できるのか、頭をフル回転させながらも、足は動かなかった。

そこでオークションが始まった。絵画や壺、掛け軸などのアンティークが次々と競り落とされてゆく。500万円、800万円、次々と手が挙がり、彼らがいかに恵まれた階層の人間かということを表していた。会場は熱気の坩堝と化し、皆、目を輝かせた。女優は、あれが欲しい。これが欲しい、と翔平の腕にしなだれかかった。けれど翔平の目はオークションの壇上ではなく、美しい萌香の横顔に釘付けになっていた。

木槌の音が鳴り響いた。

オークション会場が静まりかえり、誰もが壇上を凝視した。そこには深紅のビロードの布に隠された出品物が披露された。唾を飲む音が聞こえるような緊張感が走る。

「それでは皆様、今夜最後の逸品をご覧下さい」

朗々と読み上げるその声は微かに震えていた。ゆっくりとめくられる布の中から、ついにそれが現れた。会場からは感嘆の声が上がり、驚きで椅子から立ち上がる者もいた。萌香もまた同じだった。彼女は目を大きく見開き、指先が震えた。そこには深い海のような色をした懐中時計が輝いていた。表面には金色のイギリス王室の紋様が精巧に彫ら
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