第十一章 夫婦喧嘩「あの、あなたは」萌香は、父親の形見の懐中時計を1,000万円で競り落とした男性に強い興味を抱いた。彼の素性は謎に包まれ、浅葱財閥の秘書か出資者かと想像が膨らむ。年齢は萌香と同い年か、せいぜい二〜三歳年上だろう。鋭い眼差しと落ち着いた物腰から、ただの富豪ではない何かを感じた。懐中時計を競り落とした、その男性の真意を知りたいという思いが、萌香の心を強く揺さぶった。
第十章 懐中時計「900万円!」オークション会場が一瞬にしてどよめいた。萌香の背後から、力強くもどこか優しさを湛えた声が響き渡った。彼女が驚いて振り返ると、そこには先ほどまで気軽に言葉を交わしていた、見ず知らずの男性が、堂々と手を挙げていた。その提示した金額に、翔平は一瞬たじろいだが、すぐに背筋を伸ばし、決意を込めて手を高く掲げた。会場は再びざわめきに包まれ、緊張感が空気を支配した。男性の目は真剣そのもので、しかしその奥には温かな光が宿っていた。萌香の心臓は激しく鼓動し、胸の内で期待と不安が交錯した。翔平も負けじと声を張り上げ、競り合いは一層熱を帯びた。会場の誰もが息をのんで見守る中、二人の静かな闘志が火花を散らした。観衆の視線は二人に釘付けとなり、会場全体がまるで時間が止まったかのような熱気に包まれた。この瞬間、誰もがこの競り合いの結末に心を奪われていた。「950万円!」翔平は懸命に食い下がったが、競り合いの末、男性が1,000万円で懐中時計を落札した。握り拳を固め、歯を食いしばる翔平。萌香を繋ぎ止める切り札がまた一つ消えた。あの懐中時計は、翔平にとってただの品物ではなかった。それは萌香の父親との大切な思い出の象徴だった。「翔平くん、萌香と結婚したら、この時計を一緒に守ってくれないか?」かつて縁側で、萌香の父親が穏やかな笑顔で語った言葉が脳裏に蘇る。あの春の日、照れながら頭を掻いた翔平の耳に、時計の針音が静かに響き合い、萌香との未来を夢見ていた自分を思い出し胸が高鳴った。今、会場は水をかぶったように静まり返り、落札の余韻だけが漂う。翔平の胸には、悔しさと懐かしさが複雑に交錯し、過去と現在の間で揺れ動いていた。(くそっ!)懐中時計を落札した男性は、穏やかに萌香に微笑みかけた。その温かな視線に、翔平の胸に怒りが沸き上がった。彼は腕にしがみついていた女優の手を乱暴に振り払う。キャッ!と小さな悲鳴を上げた女優は、目を吊り上げ、動画を公開するからね!と翔平を睨みつけた。翔平は冷ややかに女優を一瞥し、勝手にしろ。お前も道連れだ。と低く唸り、彼女の顎を軽く掴んで凄んだ。女優の顔色がサッと変わり、怯えたように目を泳がせると、慌てて踵を返し、オークション会場を後にした。会場は一瞬の騒ぎの後、再び静寂に包まれた。*****翔平の心は怒りと喪失感で波立ちながらも、萌
萌香は立ち上がることを止め、その男性へと向き直った。男性は目尻を下げ、目を細めた。それはどこか懐かしい人を見るようで優しかった。管弦楽団の四重奏が遠ざかり、周りの音が消えた。萌香も彼に、どこかで会ったような既視感を覚えた。まるで記憶の断片が静かに心の底から浮かび上がって来るような気がした。「お隣、よろしいですか?」「はい、どうぞ」萌香が頷くと彼は紳士的な振る舞いで、椅子にゆっくりと腰掛けなおした。その二人の姿を見ていた翔平の目は嫉妬に激しく揺らめいた。彼は踵を返して萌香へと向かおうとしたが、女優に腕を掴まれ身動きが取れなかった。彼女の力強い手に阻まれ、翔平の心はさらに乱れた。「なんだ、離してくれ」「駄目よ、今日は私と一緒にいる約束でしょ?守らなかった、どうなると思う?」女優は翔平とのベッドシーン動画を世間に広めると、低く呟いた。彼は動きを止め、凍りついたようにその場に立ちすくんだ。一方、萌香と見知らぬ男は穏やかに話し続け、親しげな雰囲気が漂っていた。翔平の胸に焦りが広がり、心臓が激しく鼓動した。彼は女優の言葉の重さに耐えきれず、萌香の笑顔を見ながら、嫉妬と不安に苛まれた。どうすればこの状況を打破できるのか、頭をフル回転させながらも、足は動かなかった。そこでオークションが始まった。絵画や壺、掛け軸などのアンティークが次々と競り落とされてゆく。500万円、800万円、次々と手が挙がり、彼らがいかに恵まれた階層の人間かということを表していた。会場は熱気の坩堝と化し、皆、目を輝かせた。女優は、あれが欲しい。これが欲しい、と翔平の腕にしなだれかかった。けれど翔平の目はオークションの壇上ではなく、美しい萌香の横顔に釘付けになっていた。木槌の音が鳴り響いた。オークション会場が静まりかえり、誰もが壇上を凝視した。そこには深紅のビロードの布に隠された出品物が披露された。唾を飲む音が聞こえるような緊張感が走る。「それでは皆様、今夜最後の逸品をご覧下さい」朗々と読み上げるその声は微かに震えていた。ゆっくりとめくられる布の中から、ついにそれが現れた。会場からは感嘆の声が上がり、驚きで椅子から立ち上がる者もいた。萌香もまた同じだった。彼女は目を大きく見開き、指先が震えた。そこには深い海のような色をした懐中時計が輝いていた。表面には金色のイギリス王室の紋様が精巧に彫ら
カーテンが揺れ、窓から差し込む日の眩しさで萌香は目覚めた。隣に手を伸ばすとそこに翔平の背中はなく、シワのよったベッドシーツが昨夜の出来事を物語っている。熱めのシャワーを浴びると思考回路がハッキリとしてきた。翔平は、離婚しましょう。と言った萌香の顔を見て明らかに狼狽えていた。(どうして?この結婚に愛なんてないのに、どうして、あんなに慌てていたの?)その後、家を飛び出した翔平は深酒で帰宅した。彼は酔いに任せて萌香に、愛している。と、その思いを吐露した。そして彼女を、ベッドの上で貪るように深く愛した。(翔平くんは、私のことを愛している?まさか、そんなはずない)萌香の身体に残る翔平の情熱、掴まれた腕には彼の指の痕が残っている。萌香はその痕を指先で撫ぜ、翔平の心のうちに思いを巡らせた。萌香は消毒液の匂いと白い蛍光灯がチラつく病院の廊下を歩いていた。通り過ぎる看護師が笑顔で、今日もお疲れ様です。と会釈する。もう何度この光景を繰り返しただろう。この三年間にわたる、昏睡状態の母親の世話と翔平の横暴な仕打ちに萌香は疲れ切っていた。浅葱菜月様、プレートを確認して病室の扉を開ける。白い部屋のベッドで、人工呼吸器とピーブ音が規則正しく母親の命を繋いでいた。萌香はベッドの脇に腰掛けると、動くことのない痩せ細った母親の手を握って涙声になった。「お母さん、私、翔平くんと離婚することに決めたよ」その手は無反応で、返事はなかった。萌香は涙を溢しながら母親に優しく語りかけた。「浅葱の家、売ってもいいかな?そのお金でどこか遠くに行こう?」萌香は、今は誰も住まない浅葱の邸宅を手放すことを決意した。父は知人の借金の連帯保証人になって自己破産に追い込まれた。けれど、浅葱の邸宅だけは手放さなかった。「もう限界なの。そのお金で、二人で遠くに行こう?海が見える小さな町なの。養護施設からも綺麗な夕陽が見えるわ。お母さんもきっと気にいると思う」その時、ショルダーバッグのスマートフォンが震えた。着信は、久我家本宅に仕える執事、長谷川からだった。本宅から連絡が入ることは珍しかった。「お母さん、また来るね!」萌香は慌てて廊下に出た。「奥様、お久しぶりでございます」「長谷川さん、お久しぶりです。お元気でしたか?」「奥様もお元気そうで、よろしゅう御座います」翔平は、母親の事故後、本宅から現在の
(この三年間はなんだったんだろう)これまで萌香は、父親が犯した罪を償い、翔平に尽くしてきた。けれどよくよく考えてみれば、翔平の母親も自ら進んで父親が運転する車の助手席に乗り込んだのだ。萌香は、父親の事故がなければ、こんな人生を歩むことはなかったと何度も思った。翔平の母親を奪ったあの日が、彼女をこの結婚という檻に閉じ込めたのだ。(お互い様だわ)萌香は結婚指輪を外すとテーブルの上に置いた。ダイヤモンドの輝きは、三年間褪せることはなかったが、萌香にとっては自由を奪う錘でしかなかった。(・・・・・)翔平が他の女を抱いたベッドなど使う気にはなれない。怖気すら感じる。萌香は奥のゲストルームで夜を過ごそうと考えた。彼女は今夜の悪夢のような出来事を洗い流してしまおうとシャワールームに向かう。衣擦れの音が耳に響く、孤独な空間。鏡に映った自分は貧相に見えた。(嫌だ、酷い顔をしてるわ)浮き出た鎖骨、棒のような腕、心なしか胸も小さくなっている。華奢といえば聞こえは良いが、惨めだった。ただ、生まれ持った気品と美しさは枯れることはなかった。けれど、その瞳の奥には、暗い深淵が横たわっていた。萌香はシャワーを終えたが気分は晴れなかった。たまにはアルコールでも飲もうかと冷蔵庫を開けたと同時に、勢いよく玄関の扉が開いた。翔平だった。「萌香!帰ったぞ!」「お帰りなさい、ってお酒飲んでるのね!?」彼は行きつけのワインバーでグラスを傾けた。けれど萌香との諍いで心ざわめき、正体をなくしたところでタクシーに押し込まれた。耳まで赤らんだ彼の足取りは覚束なかった。「なぁ、萌香」「なに?明日も早いんでしょ?もう寝たら?」萌香のつれない態度に頭を掻きむしった翔平は、ソファに座り込んだ。ふと見遣るとテーブルの上には見覚えのある指輪が光を弾いていた。彼の表情は凍りついた。「俺がどれだけおまえを愛しても、知らん顔だ」「いつ私がそんなことをしたの!?」萌香は、これまで受けて来た仕打ちに、思わず声を荒げた。「俺が死んでも、おまえはなんとも思わないんだろう!?」「死ぬなんて軽々しく言わないで!」三年前の交通事故。位牌になってしまった父や、白い菊の祭壇で微笑んでいた翔平の母親の遺影を思い出した彼女は本気で怒った。手元にあったクッションを翔平に投げつけたが、それは当たらず床に落ちた。萌香がここ
「萌香、今、なんて言った?」翔平は明らかに動揺していた。視線をテーブルに落としたまま身動きが取れずにいた。「私たち、離婚しましょう」グラスを持つ翔平の手が小刻みに震えている。水滴がポタリと落ちた。萌香の目には迷いがなく、スカートの上で握り拳を作り彼の顔を凝視していた。(まさか、萌香がこんなことを言い出すなんて!)萌香の弱点は、昏睡状態の彼女の母親だ。翔平は、自分と萌香を繋ぐのはその存在だけだと信じていた。萌香には到底支払えない高額な治療費。その事実がある限り、彼女は自分の側から離れることはないはずだった。だが、翔平の心には不安が芽生えていた。もし治療費が支払われたら、萌香は自由になり、自分を必要としなくなるのではないか。そんな疑念が、彼の胸を締め付けた。萌香の母親の命は、翔平にとって愛の絆か、それとも呪いか。どちらともつかないその思いは、彼を静かに追い詰めていた。「脅かしか?離婚だと?おまえにそんな勇気があるのか?母親の治療費はどうするんだ」萌香はその威圧的な言葉に耳を貸すこともなく、感情のない目で小さく呟いた。「翔平くん」「なんだ」翔平は萌香がなにを言い出すのかと身構え、彼女は身を乗り出し、強い口調で言った。「これまで誰も家に入れなかったのに、あの人のことは本気なの?」「あの人?」「さっきの女優さんよ」翔平は大きな溜め息をつくとグラスをゆっくりとテーブルに置いた。「おまえに答える価値はない」「そんな言い方」翔平の突き放した物言いに、萌香は顔色を変える。彼はいきなりソアから立ち上がるとバスローブを脱いだ。次にウォークインクローゼットのダウンライトが灯り、翔平はダンガリーのシャツを羽織った。そして踵を返すと玄関へと向かう。「翔平さん!こんな時間にどこに行くの!?」「俺の勝手だ!」萌香はソファから身を起こし振り返ったが、玄関の扉が閉まる音が響いた。廊下を歩いて行く革靴の音は苛立ちを隠せず、部屋に取り残された萌香は呆然と立ち尽くした。エアコンの風が観葉植物を揺らす。どれくらい時が過ぎただろう。彼女は感情を無くした人形のように手足を動かし、無表情なままベッドルームのドアを閉めた。(もう、もう終わりにしよう)萌香はスーツケースを取り出すと、身の回りの必要なものを詰め始める。数着の衣類と化粧品、離婚をすると覚悟を決めたはずなのに、ワ